イノベイター(変革者)たちの横顔
会社にイノベイションを起こせ!  あなたもイノベイターになれる!
企画・取材・構成担当
嶋田淑之からのメッセージ
嶋田淑之写真
 

 企業経営をめぐる環境変化が今ほど速く、かつ巨大な時代はありません。どんな企業も絶えざる「自社革新」(=イノベイション)を通じて自社のサバイバルを図らざるを得ないのが現実です。そして、それをリードするのが、社内の一握りの「イノベイター」(=変革者)たちです。

 彼ら「イノベイター」は、先鋭なビジネスセンスと高いビジネス・スキルを背景に、社内上層部を動かし、社内外の関係者を巻き込みながら、「自社革新」を推進しています。

 一見華やかに見える彼ら。しかし、それは彼ら自身の絶えざる「自己革新」の賜物です。

 彼らが、どうやって「イノベイター」としての立場を確立したのか、どういう資質を持ち、どういう努力をしているのか、各業界の「若きイノベイター」たちへの取材を通じて明らかにしてゆきたいと思います。

 本連載を読むあなた自身が「イノベイター」になること、それこそが、あなた自身のビジネス界でのサバイバルを約束する最大のファクターになります。そして、あなたにはそれが可能なのです!

プロフィール
嶋田淑之
1956年生まれ。東京大学文学部卒。大手電機メーカー、経営コンサルティング会社勤務を経て、現在産業能率短期大学・講師。戦略経営協会・理事/事務局長。主要著書として、「ヤマハ発動機の経営革新」(共著、ダイヤモンド社、05年)、「Google なぜグーグルは創業6年で世界企業になったのか?」(共著、毎日コミュニケーションズ、04年)など7冊がある。
第32回 大自然が凝縮された知育玩具:「宙(SOLA)」クリエイティブ・ディレクター 吉村 紘一さん
INDEX
(1) 4センチ角のキューブに「大自然」を凝縮するって一体!? 吉村 紘一さん
(2) フィリピン、そしてタイ〜人生の方向性が明滅
(3) 帰国〜受験地獄を乗り切って慶應に進学
(4) モノ作りに目覚める〜「たけしの誰でもピカソ」出演
(5) アサツー ディ・ケイ入社〜マーケターを経てコピーライター
(6) 週末企業家として活動開始〜「宙(SOLA)」を立ち上げる
(7) 「表現者」としての今後
(8) 吉村さんに見るイノベイターとしての資質は何か?
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4センチ角のキューブに「大自然」を凝縮するって一体!?

 都市生活を長く続けていると、無性に自然が恋しくなることがある。あるいは無性に季
節感を感じたくなることがある。それは生物としての本能由来する「内なる衝動」が表面化する瞬間なのかもしれない。

 しかしそんなとき、都会を脱出できる人はよい。できない人はどうすればよいのか? あるいは、そもそも自然などというものを知らない都会で生まれ育った子どもはその衝動をどう自覚し、どう対処したらよいのだろうか?

 そんなきわめて今日的なテーマに対して、ひとつの「解答」を提示してくれる人物がいる。どんな「解答」なのか……興味津々でそれを見た私は驚愕した!

 4センチ角のアクリル製の透明立方体の中に植物が封じ込まれているではないか! しかも、それは都会の花屋さんで売っているようなキレイな「お花」ではなく、まさしく大自然を実感させる荒削りな植物だった。人間を峻拒するような原初的な自然が見渡す限り広がり、その中に自分ひとりがポツンと取り残されたような独特の感覚に私は陥った。
  「これを通じて、子どもたちが自然に触れるきっかけを作り、彼らの感性を刺激し育みたいと思っているんですよ」というニコヤカな笑みで、はっと現実に引き戻された。
  この会話の相手こそ、今回の主役である吉村紘一さん(29歳)だ。大手広告代理店アサツー ディ・ケイでコピーライターをしながら、「週末企業家」として、仲間たちと共に、「宙(SOLA)」という知育玩具制作集団を運営している。

 若々しく、それでいて何とも言えない「プラスの気(オーラ)」を発散している男性だ。吉村さんとは一体どのような人物なのだろうか?

フィリピン、そしてタイ〜人生の方向性が明滅

 吉村さんは、1978年、京都市で生まれた。獅子座のO型。父親は、当時、味の素の研究(開発)職。母親専業主婦。姉ふたりがいて、彼は末っ子だった。3歳の時、父親の転勤でフィリピン(マニラ)に一家は転居する。

「当時フィリピンでは、三井物産の若王寺支店長誘拐事件や、アキノ大統領のクーデターなどがあって、かなり危険な時期だったんですよ。でも何とかそういうものに巻き込まれることなく、子ども心には楽しい5年間でしたね」

 8歳のとき、今度はタイ(バンコク)に転居。フィリピン同様、日本人学校に通いながら、諸外国混成のリトルリーグに所属して活躍した。

「父が熱狂的な阪神ファンでして、朝練、夜練など猛特訓を受けました! お陰でリトルリーグの中では毎日来る親子として、すっかり有名になりました(笑)」

 日本人ばかりでつきあおうとする現地駐在員が多い中にあって、吉村一家は、すっかり現地に溶け込み、友人たちもアメリカ、イギリス、インド……などなど多岐にわたった。そんな日々を送る中で、吉村少年は国とか人種という枠を超えて、より大きく、より神秘的な宇宙(やUFO)へと意識が向くようになったという。そしてさらに、自らオブジェを制作するなど、自分のイメージを具現化することに興味を抱くようになってゆく。

 「ちょうど小学校の5〜6年生の頃でしたね」。人間は12歳までに「人生脚本」が書かれると言われるけれども、まさにこの時期に現在の吉村さんの雛形が出来上がったと言ってよかろう。

帰国〜受験地獄を乗り切って慶應に進学

中学はバンコクのインターナショナル・スクールに通っていたんですが、帰国することになって、東京都世田谷区に転居しました。そして私はお茶の水女子大付属中学の2年生に編入されたんですよ」。

 アジアでのびのびとした学校生活を送っていた彼にとって、日本の有名進学校の独特の雰囲気や価値観は苦痛だったようだ。しかし、凄まじい集中力を発揮して、見事、難関を突破し、慶應義塾高校に合格してしまう。

 フィリピンやタイのリトルリーグで鍛えた吉村さんは野球部に「1日体験入部」したが、正式入部は断念する。「将来プロ野球で活躍しそうなレベル選手がたくさんいて、同じ土俵で戦うことは不利だと判断したんですよ。それで、競技人口も少なく今からでもトップレベルに追いつけそうな水球部に入り直しました(笑)」

 しかし、水球部では軍隊式の猛訓練が日々続き、相当にキツかったようだ。それに耐え抜いた彼は、やがて神奈川県選抜に選ばれ、キャプテンとしてリーダーシップを発揮する。「社会に出てから、どんなに辛いことがあっても耐えられるのは、水球部の辛さを体験したからなんですよ」。

 高校時代を特徴づけるもうひとつのエピソード、それは麻雀だった。「麻雀は高校時代に一生分やり切った感じですね」と笑う吉村さんだが、果たして強かったのだろうか?

「堅実な、負けのない戦い方をしました」。

 賢明な読者諸氏なら、すでにおわかりのように、この時点で吉村さんには「ルーザーズ・ゲーム」の考え方が身についていたことがわかる。野球部を回避したことはもちろん麻雀で堅実な勝負をしていたことにも明白なように、彼の基本的なスタンスは「負けない戦略」なのである。「勝つ」ことを狙ってリスクを張るのではなく、「負けない」ための手を打ってゆく。これこそが、その後の彼の人生における基本姿勢となり、現在の発展に直結しているのである。

 1997年、慶応義塾大学総合政策学部に内部進学。「転機」が訪れる。

モノ作りに目覚める〜「たけしの誰でもピカソ」出演

 「『現代芸術』の授業に出ていた時、モノ作りをしたいという衝動に駆られましてね。慶應を辞めて美大に入り直そうと考えたんです。ところが勿体ないと反対され、慶應の環境情報学部でコンピュータアートをやってみないかって言われたんですよ」。

 悩んだ末、彼は、同じ慶應藤沢キャンパスにある環境情報学部に転部した。「3年次からCGのゼミに入って3D CGのアニメーションを制作したんです。『ケチャ』という土着系のキャラクター創造しました。民族全員が仮面を被っていて決して外すことはないんですね。そして、顔を見ると死んでしまうという設定にしました。これをいろんなコンテストに出したら思いのほかご好評を頂きまして……テレビ東京の『たけしの誰でもピカソ』に出演する運びとなったんですよ」。

 テレビの人気番組に出た感想は?

「痺れましたね!(笑) 自分が制作したものが3分間も電波に乗るっていうことの凄さを痛感しましたよ」

 しかし、就職活動では、テレビ局など映像だけを扱う仕事は選ばなかったという。「自分のアイディアを、その時々のベストなやり方で出せるのが良いと思ったんです」という吉村さん、広告代理店を受験し、内定の出た(株)アサツー ディ・ケイに入社を決めた。

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